死人と梔子




 六月二十日、午前四時。
 まだ日も昇っていない、朝と呼べるかもわからないほどの時間に玄関扉を押し開けると、すぐ目の前の内廊下はやはり不気味に静まり返っている。

 なまえはカードキーの入ったパスケースを取り出して、センサーの上に押し当てた。カチリ、と施錠される音を確認して、扉に背を向け歩き出す。長い廊下を歩き抜けた先でエレベーターが来るのを待ちながら、手持ち無沙汰とばかりに通路をぼんやり眺め渡した。
 空調は入っているはずだが、漂う空気にところどころ肌寒さが残るのは、午前四時という時間帯のせいだろうか――いや、それとも。
 なまえがかすかに身を震わせたのと同時にエレベーターが到着し、軽やかな機械音と共に扉が開いた。中へ乗り込んだなまえの重みを感知してか、階数ボタンが自動的に点灯する。なまえが最下階である一階のボタンを押すと、扉が閉まり、エレベーターはそのままゆるやかに降下を始めた。

 エレベーターが作り上げた狭い空間の中は、すでに静寂で満たされている。
 なまえはそれを肌で感じながら、背後の壁に寄りかかってそっと目を閉じた。浮遊感と重力が同時にのしかかってきて、それもいつも以上に長く強く、身体にまとわりついてくるように感じる。
 ――恐ろしく静かだ。
 この世界に自分ひとりしかいないのではないかと錯覚するほどで、その静けさに耳鳴りがした。いっそ本当に、自分以外が存在しない世界に行ってしまえたらいいのに。
 そう思案しているあいだに目的階への到着を告げる音が鳴り、なまえはゆっくりと瞼を持ち上げた。開いた扉から足を踏み出し、エントランスを抜けて外へ。マンションの敷地から一歩外へ出たところで立ち止まり、そうしてようやく、なまえは肺に溜まっていた息を吐き出した。
 暦の上ではとうに夏を迎えたとはいえ、日の出までは迎えていない街はまだ薄暗く、漂う空気は少し冷たい。大きく深呼吸をすると、肺を満たす冷たさが脳まで届いていく気がした。

「こんな朝早くにお出かけ?」
 朝の冷涼な雰囲気を味わう間もなく、背中に声を投げかけられたなまえはひどく緩慢な動作で、気だるげに背後を振り返った。
 マンション手前の植栽を囲う花壇に腰掛けて、いつの間にやら男が一人、親しげに手を振っている。男は朝の挨拶もそこそこになまえの前まで歩み寄ると、寝起きで不機嫌そうななまえの顔をまじまじと眺め「ひどい顔」と小さく笑った。

「……おはよ、南雲」
「おはよ~。早起きなんて珍しいね」
「まあ……ちょっとね。南雲はお休み?」
「そんなとこかな」
 ――嘘に決まっている。
 格好こそラフなものだが、南雲はおそらく仕事明けだ。どことなく血の匂いを漂わせているし、そもそも非番の日には部屋に篭もってひたすら寝るかナンプレするかというくらいの人間と、こんな朝早くに鉢合わせをするはずがない。
 かといって早朝からそんな問答をして疲弊するつもりもないので、なまえはそれを指摘せず、南雲の嘘を黙って受け入れることにした。

「それよりさ、なまえさん、これから一人でどこ行くの?」
「……ちょっと登山に」
「喪服とヒールで?」
「はー……」
 ため息混じりに腕を組み、なまえは自分の足元へ視線を落とす。お堅い喪服を身にまとい、ヒールを履いた女が一人、朝の四時。この格好で登山に行くなどと、一体誰が信じるだろうか――。いや、これから山を登るつもりでいるのは、嘘偽りのない事実ではあるのだが。
 無論なまえとてこんな言い分でやり過ごせるとは思っていないが、されどいくら相手が南雲でも、「これから私有地の山に部下の死体を埋めに行きます」とはさすがに言いづらい。どうしたものかとなまえは数秒考え込んで、けれども最終的に、「今更この南雲相手に取り繕っても仕方がない」という結論に至ったようだった。
 ここで南雲に捕まった時点で、そもそもが運の尽きだったというわけだ。なまえは観念したように、しかしこれ見よがしに再び嘆息する。

「ちょっと死体埋めに行ってくる」
「えっなにそれ、楽しそ~。僕もついてっていい?」
「遠出するからだめ。車の運転しなきゃいけないし……」
「運転? 鍵もないのにどうやって?」
 ――は? なまえがそう聞き返すよりも早く、南雲は胸ポケットからなにかを取り出したかと思うと、なまえの目の前でわざとらしくひらひらと振ってみせた。
 ついさっきマンションの入口で会ったばかりで、すれ違ってもいないというのに――いつ掠め取ったのか。南雲の手の中にすっぽり収まっているそれは、間違いなくなまえの車の鍵であった。

「手癖わる……」
「器用って言ってほしいな~」
「はあ……南雲は助手席でも酔うんだもんなあ……。そのくせ酔い止め飲めないし、その三半規管でORDER上位は無理があるでしょ」
「毒も薬も並大抵のは効かないからね。まあでも、ドライブデートもたまにはいいじゃん。連れてってよ」
「……吐いても知らないから」
 まったく油断も隙もない。悪童、クソガキ、いたずら小僧、恐ろしく顔の良いチンピラ、敏腕殺し屋、エトセトラ。思い付く限りの悪態を脳内で並べながら、なまえは今日何度目かもわからないため息を吐く。
 己の体質など百も承知で、その車酔いのリスクを冒してまで死体の埋葬に同行する――その行為に何の価値があるというのか。そう思うものの、一度こうなると南雲は非常に面倒なのだということもなまえにはよくわかっていた。文字通り、車の鍵を手中に収められては取り返すのもほぼ不可能で、この場に置いていく選択肢は端から無いと言っていい。

 なまえは覚悟を決めて「コンビニで買い物だけしてくるから、先に車の中で待ってて」と南雲を駐車場に向かわせ、マンションからそう遠くない場所にあるコンビニに入った。二人分の朝食と飲み物、ちょっとした菓子類、眠気覚ましのコーヒーやエナジードリンクやらもろもろを買い込んでから、足早に店を出てマンションへと戻る。
 駐車場へ歩を進めると、南雲は車の中ではなく、車に寄りかかってなまえの帰りを待っていた。こうしてただ立っているだけで絵になるほどの美丈夫を、これから自分の車の中に閉じ込めて乗り物酔いの刑に処さなければならない――そんなことをする必要が本当にあるのかどうか、けれどもその再考の余地も時間も、今の自分には残されてはいない。
 なまえは二つある買い物袋のうちの一つを南雲に手渡しながら、仕方なしに運転席の扉を開いた。

「南雲、はい」
「? なにこれ?」
「使い捨てのアイマスク、あと携帯用の簡易枕。気休めだけどなにもないよりいいかと思って……眠ってる間にでも着いてれば気分もマシになるかもだし、それに――どうせ寝てないんでしょ」
「え~。なまえさんやさし~」
 南雲はにこりと破顔して、まるで宝物でも受け取るように両手でそれを受け取った。遠足で用意したリュックサックの中身を確認するみたいに、袋の中を何度も何度も覗き込んでは「ドライブデート、楽しみだな~」と呟いている。それはそれは上機嫌に、出発を待ちきれない子どものように。
 その横顔を盗み見ながら車に乗り込み、なまえは南雲に知られぬように小さく鼻息をこぼした。
 ――これから地獄を見る可能性すらあるというのに、この男ときたらどうしてそんなに嬉しそうなのか。


 マンションを後にして公道へ出ると、早朝特有の澄んだ空気がなまえの肺を満たした。まだ日も昇らない時間だからか、道路には車通りもほとんどない。
 助手席で横になっている南雲を起こさぬよう、なまえはいつもより慎重にアクセルを踏み込みながら高速道路をいくつか乗り継ぎ、小一時間ほど車を走らせた。下道に降りたところで休憩を挟み、しばし景色を眺めてから、また車に乗り込んで田舎道を進む。
 南雲は休憩スポットに立ち寄っても起き上がってくる気配がなければ、かといって隣で規則的な寝息を聞かせてくれるわけでもない。本当に眠っているのかどうか不明なところだが、ただ律儀に枕とアイマスクを装着して、大人しく、静かに、倒したシートに背を預けているところを見るに、「いないものと思って好きなようにやれ」という彼なりの意思表示なのだろう――どういう意図で同行しているのか、甚だ読めない男である。
「南雲ー。ここから山道だから、ちょっと揺れるよ」
 なまえは念のためそう伝えたが、やはり彼から返事はなかった。

 だんだんと道が細くなるにつれて、車体の揺れも大きくなる。気にせず車を走らせていると、窓の外には樹木の姿しか見えなくなった。次第に東の空が明るみを帯び始めた頃、なまえは山の中腹にまで辿り着くと、そこで車を停止させた。
 フロントガラス越しに見える限りでも、そこらじゅう一面に夏草が生い茂っているのがわかる。森林組合には何の委託もしていない土地なので、草も木も、人の手が入らず好き放題に伸びたままだ。鬱蒼とした木々に囲まれた山の中でエンジンを切ると、あたりは一層、異様な静謐に包まれた。
「――着いた?」
 エンジンが止まったのを察知してか、南雲がシートごと身体を起き上がらせてきた。なまえは「うん」と返事をして、窓を少しだけ開けてから車外へ出る。
 標高が高いわけではないが、それでも都心部のそれとは異なる、山の冷えた空気に頬を叩かれる。出鼻をくじかれそうな気持ちになって、なまえは負けじと、己の頬をぱちんと叩いて気合いを入れた。

 車のトランクを開いて、なまえはそこから二つの大きな袋を見下ろした。ひとつは工具の入った袋、残りのひとつは――「かつて部下だったもの」が入った麻袋だ。半日ぶりの再会を果たした、もう二度と動かないそれは、物言わぬ肉塊と化して袋の中で横たわっている。
 なまえはトランクから麻袋を引っ張り出して地に下ろすと、次にはそれを引きずって、やるやかな山の傾斜をゆっくりと歩き始めた。――喪服にヒール、およそ登山するとは思えない、正気を疑うほど場に似つかわしくない出で立ちで。
「運ぶの手伝おうか? 重いでしょ。ヒールだし」
「ううん、いい。ありがと。私一人で大丈夫だから……その代わり、穴掘りお願いしてもいい? 工具はトランクの中にあるのを使ってくれたら」
「おっけ~」
 声をかけたにはかけたが、本当はなまえが自分一人でこの死を背負いたいのであろうことは、南雲にもとうに察しがついていた。背に乗せる手伝いをすることも考えたが、そうすると今度は背負ったものの重さで彼女が潰れかねないので、おそらくはこれが正解なのだろう。力不足でこうして惨めに引きずることしかできない、それすら含めての贖罪なのだから。
 ヒールの踵が森の土に轍を刻む。一歩ずつそれを踏みしめるたび、柔らかい土と落ち葉がくしゃりと潰れる音がする。明らかに身の丈よりも大きな麻袋を引きずって、なまえは森の中を進んでいく。たどたどしくはあるが、それでもその足取りには迷いがない。
 その背中を見守りながら、南雲は言われた通りにトランクから土木工事用のシャベルを取り出した。重い足取りで山道を歩くなまえをさっさと追い抜いて、南雲は比較的草木の少ない開けた場所にたどり着くと、通ってきた道に向かって大きく声を張り上げる。

「なまえさーん、このへんでいいー?」
「いいよー」
「適当に掘っておくからさ、なまえさんはゆっくりおいでよ」
「ありがとー」
 了承こそ得たものの、彼女はおそらくこの場所の状態まで把握できてはいないだろう。声の届く範囲ではあるが、そこそこ遠くに彼女はいる。それらしき気配とシルエット、シャベルで土を掘り起こす音を頼りに、転ばぬように前だけを見て歩いて来るに違いない。
 この分だと自分が穴を掘り終えるのが先になりそうだが、どれだけ時間がかかっても手は貸さず、文句も言わずに彼女が来るのをじっと待つことにしよう。南雲はシャベルを地面に突き立て、さっそく土を掘り返す作業に取りかかった。


「――それで? だ~れが縦穴掘ってくれって頼んだよ」
「え、穴ってふつうこうじゃないの?」
「悪ガキか? これじゃ落とし穴でしょうが……。死んだ後も立ちっぱなしは疲れるだろうし、さすがに寝かせてあげたいんだけど……これだと落とし穴に落ちてそのまま死んじゃった人みたいだし……」
「じゃあ一緒に掘ろうよ」
「うん……」
「これでめでたく共同作業だね~」
 南雲が二十代も後半に差し掛かってなお童心を手放してはいないだけなのか、それとも単に、生来こういう人間であるだけなのか。彼の中で「穴といえば縦式の落とし穴」という方程式がすっかり出来上がっているらしかった。
 一体どんな人生を送ってきたら故人を縦に寝かせるという発想にたどり着くのだろうか。その南雲お手製の落とし穴に呆れ返るやらありがたがるやらで忙しく、なまえは南雲の言葉を適当に聞き流し、工具の入った袋の中からシャベルを取り出した。

 それからしばらく言葉もなく、無心で穴を掘り続け、形成し、掘っては固めを繰り返し、小一時間が経過したところだろうか。彼らの前に、人一人が横たわるには過分すぎるほどの大きな穴が出来上がった。どちらともなく「こんなもんか」と顔を上げ、二人して浮かんだ汗を手の甲で拭い、シャベルを地面に突き立ててから大きく深い息を吐く。
 南雲が掘った縦穴を無理やり広げて作ったためか、歪な正方形をした穴の周りは、まるで土砂崩れが起きた後のように土と落ち葉が散乱している。ただ穴の形だけ見れば埋葬用としてずいぶんと様になっていて、これほどのスペースであればすぐにでも死体を安置することができるだろう。なまえはそう判断して、南雲に作業の終わりを告げると、そぐそばに横たわっている麻袋に手をかけた。
 袋の口を縛っていた紐をほどいて、中身を穴の底へ寝かせる。そうしてからなまえは、かつての部下だったものの顔を見つめて、その瞼を閉ざしてやった。

「まだ若そうだね」
「ん……二十歳になったばっかりだったよ。まだ生きたいって言ってたからなんとか治療してもらってたけど、その途中で死んじゃった。身体が先に音を上げちゃったみたい」
 なまえは穴の縁にしゃがみ込み、落ちないように気をつけながら、土で汚れた手で部下の頬を優しく撫でた。

 その青年は若くして家族を亡くした。
 帰る場所もなく、いつも独りで闇夜の中をさまよいながら、居場所を求めて深夜に遊び歩いていた日のことだ。青年は運悪く、粗悪な殺し屋の仕事現場に居合わせてしまった。
 その殺し屋は素行も悪ければ腕も悪かったようで、殺人現場を見られた口封じとして青年に手を掛けたはずが――否、慢心から、彼の状態を確認しなかったと言ったほうが正しいが――ともかく彼にとどめを指さずにその場を去って行ったのだ。そのまま瀕死の状態で放置されていたところを、「後片付け」業務の現場に出ていたなまえが拾ったのが出会いのきっかけだった。
 警戒心や絶望からか、彼はなまえの部屋に連れてこられた当初、食事も睡眠もろくに取らない生活ばかりを続けていた。ちょっと傷が塞がったかと思えば突如激昂して暴れ、なまえのことを罵っては恨みつらみを並べ立てる。そんな毎日で、なまえに襲いかかろうとしたのも一度や二度のことではない。
 狂犬のように手が付けられない状態だったのを、けれどもなまえは懇切丁寧に、根気強く看病した。完治したのちに自分の部下として雇い、仕事に同行させては仕事以外でもあちこちに連れまわし――。仕事の終わりに一緒に食事へ行くようになる頃には、彼もすっかりなまえのことを信頼し、現場でも率先してなまえのサポートをしてくれるまでになっていた。
 ようやく仕事が板についてきて、なまえがいなくても現場で働けるようになった矢先のことだ。勃発した殺し屋同士の抗争に巻き込まれて重傷を負い、その結果、彼は帰らぬ人となってしまった。
 悲しいほどにあっけない、哀れな人生の幕引きだった。

「……ついこのあいだ、二十歳のお祝いしたばっかりだったのにな」
「あー、そういえば僕のときもしっかりお祝いしてくれたもんね。やっぱり全員にやってるんだ、ああいうの」
「まあね。自分より年下の子だったら、一応」
「なまえさん、ほんっと年下の子に甘いよね。特に男」
「女の子はね……拾っても拾っても誰かさんを追いかけてみんなさっさと部屋を出て行っちゃうから。甘やかせる期間が短いんだよね、誰かさんのせいで」
「えー誰なんだろ。大変そうだね~」
 互いに諧謔を交えながら、なまえがその若者に土をかけるのに倣い、南雲もシャベルを使って土をかぶせはじめた。
 殺し屋という職業柄、自分も何人もの人間の死を目の当たりにしてきたが――感傷に浸るわけではないにせよ、部下や同僚の死をいちいち悼むような人間は、「死」を扱う者としては最も不向きの人材であると言える。だからこそ、そういう人間にこうして手厚く葬ってもらえる者は誰より幸せなのではないかと、南雲は時折ふと考えることがあった。
 無論、なまえとしては彼を「幸せな人間」として送り出している気は毛頭ないのだろう。だが「個人」としての性質を保ったまま、一人の「人間」として葬送されるその事実は、どこの誰ともわからない「死」が掃き溜めに打ち棄てられることもあるこの世界において、それだけですでに破格の扱いなのだ。
 もし自分が同じ局面に立たされたとき、果たして同じように葬送してくれる人間はいるのだろうか。それをしてくれるほど深い間柄の人間が、この先のどれほど生き残っていることだろうか。そんなことを考えながら、南雲はこれが少しでもなまえの心休めになるようにと、祈りを込めて土をかぶせていく。名前も知らぬどこぞの男のためではなく、使い捨てるはずだった命に愛着を抱かずにはいられない、このどうしようもなく愚かで優しい女のために。

「――ごめん。車の中に忘れものしたから取りに行ってくる。南雲はそのまま先に帰ってて」
 二人して穴の中に土を流し込み、あとは落ち葉を被せて適当に整えるだけというところまできて、しかしなまえはそれをせず、くるりと踵を返してそう言った。
「いいよ、せっかくここまで来たんだし。どうせなら最後まで付き合うよ」
「……ありがと。じゃあちょっとだけ待って」
 そう言い残して場を去った彼女は、数分後、なにかの苗とペットボトルに入った水を腕に抱えて南雲のもとに戻ってきた。「なにそれ」「クチナシの花」「へー」白い花を咲かせているそれは、今しがた寝床を土の下に移し替えたその男が、去年の今頃「名前は知らないけどかわいい花だな」と言っていたものなのだという。安直な言葉遊びかと茶化そうとしたられっきとしたエピソード付きだったので、「あ、もしかして死人に口無しとか?」などと軽はずみに言葉にしなくてよかったと、南雲は内心でこっそり胸を撫で下ろした。

「来世は花でも愛でてろよ……か」
「なにそれ」
「そう言われたの。今際の際に」
「へー。よくわかんないけど……今からでも愛でられるようにちゃんと根付いてくれるといいね、この花」
「……そうだね」
 固めたばかりの土を少しだけ掘り返し、苗を差し入れ、そこにまた土を被せてやれば定植完了だ。なまえはおもむろに立ち上がって水を撒き、儀式の終わりを告げるかのように、重苦しいため息をひとつ吐き出した。
 埋葬を終えてもなお、彼女は部下の男の死に涙一つ見せなかった。ただその瞳に昏い悲哀を宿し、じっと土を見つめているだけで――それ以上なにをするでもなく、風に揺られながらただ静かに佇んでいる。次になまえが「行こうか」と言葉を口にするまで、南雲もまた、何を言うでもなく彼女の隣に寄り添った。

 今度こそ永遠の別れの時だ。
 来た道を引き返す形で帰路につくなまえの背に、しかし南雲はこの場に不適切なほど明るい調子で、「あ、そうだ」とわざとらしく声をかけた。
「なまえさん、まだあれやってないよ、あれ」
「なに」
「いや~、最後はやっぱあれじゃないと締まらないよね。ここらで一発やっとこうよ、弔銃」
「銃持ってきてないから無理」



 車内に充満する沈黙は、南雲となまえの肺を循環し続けてもう随分と長い。
 あのあと南雲に「行きとは違う道がいい」「下道でいいじゃん」「せっかくだから海見て帰ろうよ」などと請われ、なまえは「運転するの私なんだけど……」と不服そうにしながらも、「まあたまにはいいか」とその提案に従った。ナビの案内を無視して海沿いを走り、途中で見つけたレストランで遅めの昼食を済ませ、また南雲に請われるままドライブをしつつ、今に至る。
 そうして海を見ながら道路を走り、どれほど経っただろうか。行きに通った山道とはまるで違う、ただただ平坦な道をひたすらに走り続け、なまえは眠気覚ましとばかりにようやくその沈黙を破った。

「――南雲はさ」
「ん?」
「私が今日遠出するって、どうしてわかったの」
「そりゃ気づくよ、なまえさんのことずっと見てきたもん。むしろ僕が気づかないとでも思った?」
「……そんなにわかりやすく落ち込んでたのかな」
「ううん、全然。はたから見たらうまくやってたと思うよ、僕の目を誤魔化せなかったってだけで」
 南雲は隠す気もないのか、あっけらかんと笑いながらそう答えてみせた。
 南雲いわく、なまえはこの数日間ずっと浮かない顔をしていたらしい。話しかければしっかりと返事はするが、それ以外ではスイッチが切り替わったみたいに、上の空といった体で何かしら考え込んでいることが多かったのだと。「なんかいきなり車と工具の準備してるし、『あっこれ部下の子死んじゃったっぽいな』って」と南雲は気楽にそう続けた。
 南雲相手だと気が緩むのがわかっていて、普段通りに振る舞おうと気を張っていたのがかえって裏目に出たようだ。なまえは返す言葉もなく、ちょうど赤信号で停車したのをいいことに、ため息交じりに窓の外へと視線を投げた。

「私有地だと人目につかないからいつ行ってもいいんだろうけど、行くとしたら朝方だろうってあそこで張っててよかったよ。――もしも深夜に一人で行こうとしてたら、さすがの僕でも止めてたかな」
「なんで」
「行ったら帰ってこない気がしたから。……っていうのは冗談で、夜の山道は危険だからね」
「それは……どうも」
 助手席側の窓の向こうに目をやって、南雲はその目を細めるように笑った。

 遠回りをしていたせいもあって、日はもうすでに西の方へ傾いている。眼前に広がる海が眩しい西日を受け、美しく光り輝いているのが車の窓越しからでもわかる。
 このままだと帰りは日没後になるだろうが、なまえは別段それを億劫だとは思わなかった。南雲もその件について何も言ってこないあたり、どうやら明日は休暇ということらしい。急ぎの予定も翌日の仕事もないとなると、次に考えなければならないのは今晩の食事についてだった。
「今日のお夕飯どうしよっか」
「う~ん……。お昼がわりと遅めだったから、そんなには空いてないかな~……コンビニでなにか買って帰ろうよ」
「ん……わかった」
「それにしても、思ったより元気そうでよかったよ。食事も喉を通らないくらい落ち込んでたらどうしようかと思ってた」
「さすがにそこまでヤワじゃないよ」
「まあそうだよね。なまえさん、僕が死んでも泣かなさそうだし」
「あー……。いや、南雲が死んだら泣くかな」
「えー、意外だな~。次の日にはもう忘れてそうなのに」
 嘘偽りのない南雲の言葉はもはや悪口じみている。彼が正直に――「立ち直りが早い」というよりかは「薄情そうだ」と――本心を吐露しても、しかしなまえもそれに目くじらを立てることもなく、むしろ南雲の慮外にも「ううん」とやんわりそれを否定しながら言った。

「たぶん泣くよ。顔ぐっしゃぐしゃにして、馬鹿みたいに泣くと思う。南雲には一度も見せたことないような顔で」
「……僕が――一度も見たことないような顔で?」
「うん」
「僕の知らないなまえさんの顔なんて、そんなのあっていいわけないじゃん」
「あるよそれくらい。だって南雲と私なんて、まだ――ほとんど毎日一緒にいたっていってもせいぜい七、八年くらいでしょ。……だけどまあ、泣き顔のひとつくらいならそのうち見られるんじゃない? それまで南雲が生きていれば、だけど」
 なまえのそれは単なる強がりでも虚勢でもなく、本心で思っているからこそのものなのだろう。きっぱりとそう言い放つ彼女の顔は妙に凛々しくて、数時間前に弱音を吐いていた人間の面構えとはまるで別人のもののようだ。
 他人に極力弱みを見せたがらないなまえの泣き顔なんて、そんなもの見てみたいに決まっている。けれども自分にはこれから先の命の保証などあるはずもないので、「見たいなら死ぬな」と暗に告げてくる彼女にも返す言葉が見つからない。
 かといってここで話が終わってしまうのもなんだかもったいない気がしたので、話題を少しずらそうとして、南雲は「じゃあさ」と口を開いた。

「それでも僕が先に死んだら、今日みたいに埋葬してよ。土葬でいいから」
「やだよ。南雲の死体、ぜったい重いもん。私ひとりじゃ抱えきれない」
「え~残念。僕も埋葬してもらいたかったな~」
「土葬……っていうか、埋葬は疲れたからもうやらない。いろいろと荷が重すぎるし」
 はあ、と心からのため息をこぼし、なまえはフロントガラスの向こうにある景色へぼんやりと目線を向けた。
 水面はやはり凪いでいて、夕焼けを反射してきらきらと光るその様は、朝からどこか浮き足立っている己の心のうちとはまるで正反対だ。こんなに引きずるつもりはなかったのに、手ずから育てた部下の最期を見届けたというのが尾を引いているのだろうか――埋めたら即座に忘れられるとばかり思っていたのに、どうにも人間というのは、自分が受けた傷の種類を憶えるようになっているらしい。
 切り傷は鋭利な刃物によって、痣は鈍器で殴りつけられた痕として。他人によって植え付けられた心の傷は嫌というほど人の形を保っていて、それは人にしか癒せぬ性質であるし、人を喪ったことによって空いた穴もまた、人でしか埋められないものなのだろう。
 それを自覚すれば自覚するほど、この痛みは正常なのだと考えれば考えるほど、どうしても思いの丈を言葉にせずにはいられない。なまえは「まあ、でも」と前置きをしてから、そう間を置かずに二の句を紡いだ。

「収穫はあったかな。私が死ぬときは――たぶんこうはいかないだろうなって思えたから」
「え、そう?」
「うん。たぶんどっかで殺されて、身包みぜんぶ剥がされて、金目のもの根こそぎ盗られて……真夜中に素っ裸で東京湾に沈められる、そういう人生だと思う」
「ふ~ん」
「ああ、でも、どうせ死ぬなら最期は南雲の前がいいかな。南雲は金品には興味ないだろうし、南雲になら裸体見られても平気だし……あーだこーだって私に文句言いながら、なんだかんだ毎年お墓参りに来てくれそうだし」
「……ずるいなあ」
 心底ずるいと南雲は思って、なまえから顔を背けるように、窓の外へと視線を投げた。
 こんなに弱りきってからようやく死生観を語り出すのもそうだが、特筆すべきはその身勝手さだ。こちらが死んでも手向けのひとつもしてくれないのに、いざ自分が死ぬときには「最後の男」になれと言う。
 もしも自分が、南雲という一人の人間がこの世からいなくなったとき――彼女が「顔をぐしゃぐしゃにして泣く」のがよしんば本当だったとして、それでも次の日にはさっさとその死を受け容れて、その先も自分ひとりで生きていけるくせに。こんな勝手気ままを平然と突きつけてくる女が、こんなときにだけ弱さを剥き出しにする彼女が、それでもやはり、どうしようもなく好きなのだ。

「なまえさん」
「うん?」
「好きだよ」
「うん」
「来年もこうやってまた二人で海でも見に来ようよ」
「それは無理」
「そこは『うん』って流れじゃん」
「来年も生きてる保証がどこにもないから」
 なまえは南雲に一瞥すらくれずに、前方を向いたまま毅然としてそう言い放った。
 このなまえという女は、決して嘘がつけない正直者というわけでも、果たせない約束はしない誠実なタイプでもない。だというのに、一年先の予定にはやけに否定的なのは、やはり自分の境遇によるものだろう。
 突然に告げられた「好き」の想いには何の疑問も持たないくせに、そこだけは確固たる意志で即座に却下をしてくるあたり態度が徹底されている。ブレない姿勢が面白くて、南雲は「身も蓋も夢もないな~」と肩をすくめて小さく笑った。

「嘘でもいいから『うん』って言ってよ」
「無理だって、南雲みたいに器用じゃないもん。けど……来年じゃなくて来月の予定だったらいいよ」
「来月? 来月って……なにかあったっけ」
「さあ……お祭りとか? もうじき夏だし」
「あ、特になにかあるわけじゃないんだ」
 自分から「来月の予定ならいい」と言っておいて、現時点で特定の催事に行く計画はない――ということは、おそらく実現までに間が空くことを懸念しているのだろう。
「来年の今頃」があまりに未知数すぎるため予定を確約できないというだけであって、直近の未来であれば約束もやぶさかではない……その解釈で問題なさそうだ。なまえのほうからデートに応じる姿勢を見せてくれているのなら、自分もそれに乗じない手はない。
 南雲はすぐさまスマートフォンのカレンダーを表示すると、来月の日付をタップして予定を確認しながら口を開く。

「ん~……じゃあ、一ヶ月後にまたここまで来るのは?」
「ここでいいの? また車に揺られないといけないのに」
「えー、だって気になるじゃん。なまえさんが植えた花が枯れずに咲いてるかどうか」
「……ああ、うん」
 もっともらしい理由を前に、なまえは納得したように押し黙る。南雲のそれは物好きとしか言いようのない申し出のようで、けれどもその実自分のためでしかない提案であるのを、なまえ自身が悟ってしまったせいだった。
 一ヶ月後に再びこの地へ訪れて、部下の死を再び目の当たりにし、それを受容して――。次に進むための一歩となるそのきっかけを、彼はこうして作り出そうとしてくれている。これも長年の付き合いというものなのだろうか、南雲は表立って口には出さないが、その想いが、その聡い態度までもが如実に伝わってくる。
 それならば自分もまた、自分なりのやり方で彼の想いに報いなければならない。いつ何時なんどきでも隣にいられるわけではないにしても、否、だからこそ感謝の気持ちはきちんと態度で示しておかねば。そう心に決めて、なまえはそっと切り出した。

「来月って忙しいの?」
「え~、どうだろ。この仕事突発的なとこあるからなあ……なんで?」
「せっかくだから一泊して、海でも見て帰ろうと思って」
「あ、それいいね。前もって言っておけば丸一日は休めると思うよ」
「うん、じゃあまた来月。……今日のお礼も、そのときに」
「何のお礼かよくわかんないな~」
 南雲は相変わらず茶化したような態度でそう言って、スマートフォンから視線を外し、再び海の方へと目を向けた。

 鈍色の空に浮かび上がる、仄かに赤い光が日没を報せている。海と空の境界を曖昧にするその光は、けれども最後には空を覆い尽くし、やがて何もかもを包み込む夜を連れて来るのだろう。
 もう数時間ほど経てば、日付が変わって夏至の日になる。
 あと何回、彼女と共に季節の節目を迎えられるだろうか。あとどれくらい、こうして同じ景色を見られるだろうか。そんな想像をしただけで、目の前の風景すらも愛さずにはいられない。今この瞬間までの世界をしっかりと目に焼き付けて、南雲は静かに瞼を伏せた。

「なまえさん」
「うん?」
「好きだよ」
「ん……さっき聞いた」
「さっきのはさっきのだよ」
「それもそうか」
 草いきれ、紫陽花、霖雨、五月雲。身にまとわりつく黒南風くろはえを払いのける日をあと何日か過ごしたら、夏の足音はすぐそこだ。
 その年の四季は一度きり。どれほど思いを馳せようと、もう二度と会うことのない「今年の夏」はやってくる。


(2024.03.14. 南雲/愛でしかない)